ご遺族のこころが語り…

息子が27歳で自死しました。

遺書もなくどうして自死したのか、いくら考えてもわかりません。

あとから聞いたところ、精神科に半年ほど前から通っており、
眠れないと訴えていたそうです。

でも、そんな理由で死ぬなんて考えられません。


家には、父と母がいるがどちらも精神障害3,2級で
そうだんしずらかったのか?

家がいごごちがわるかったのか?

会社でなにかあったのか?


いくら考えても答えは出てきません。

(終)

「ト・リ・セ・ツ」
(大切ナ家族ヲ喪ッタ私達ヨリ)

私達ハ、心ニ深イキズヲ負イマシタ
心ノ傷ハミエマセン

デモ、痛クテ痛クテ
傷口カラハ血ガ流レ続ケテイマス

私達ハ、突然涙ヲ流シマス
私達ハ、急ニ黙リ込ミマス
ソノ時ハ、驚カナイデ、ドウカ ソット シテ下サイ

大切ナ 人ヲ 失ッテ 途方ニ 暮レテ
イルノデス

マタ、私達ニハ
行ケナイ場所ヤ、入レナイオ店ガ
有マス

ソレハ大切ナ人トノ
思イ出ガ沢山ツマッタ所ナノデス

ドウカ無理ニ誘ワナイデ下サイ

ソシテ、トテモ辛イ記念日ヤ
行事ガ有マス
大切ナ人ノ誕生日ヤ、オ別レシタ日
クリスマス、祭日、桜ノ頃……

ソンナ日ハ
ジット静カニ身体ヲ丸メ
心ト耳ヲ閉ジテ泣キ暮ラスデショウ

コノ 悲シミハ 同ジ 傷ミヲ
経験シタ人デナイト ワカリマセン

又アル時
私達ハ、突然、明ルク 振舞イマス
笑イ声サエ アゲル時ガ アリマス

デモ ソノ時ニ
「元気ニナッタネ」 トカ
「モウ大丈夫ナンダネ」等ト
言ワナイデ下サイ

元気ニナッタ訳デモ、大丈夫ナ訳デモ有リマセン

タダ…笑イナガラ、 モガキ 苦シンデ イルノデス
普通ニ振舞オウトシテイルノデス

心カラ笑エル日ハ、二度ト無イト
知ッテイテモ

時間ト 共ニ私達ノ 表情ハ 変ワリマス

時ニ 心ヲ病ミ
或イハ 身体サエ 壊シマス

ソンナ時
「頑張ッテ」トカ
「他ノ家族ノ為ニシッカリシナサイ」等ト 言ワナイデ下サイ
誰ヨリモ 自分ガ 一番 解ッテイルノデス

私達ハ 自分ヲ 責メ
運命ヲ 嘆キ
喪ッタ 大切ナ魂ニ
会イタイ、取リ戻シタイ ト
心カラ願ッテイルノデス

貴方方ニ、情ケトイウ 感情ガ アルノナラ
ドウカ ソット シテオイテ下サイ

無理ニ寄リ添ウ振リヲ
シナイデ下サイ

ドウシテモ 何カヲ シタイト思ウナラ
優シク 背中ヲ ナデテ 下サイ

或イハ 一緒ニ 泣イテ下サイ
ソシテ 私達ノ 喪ッタ 大切ナ魂ヲ
忘レナイデ下サイ

私達ハ、貴方方ノ何気ナイ
言葉ヤ 態度デ 更ニ 深ク 傷ツキ
戸惑イ 苦シミマス

ダカラ……オ願イデス
私達ヲ ソット シテオイテ
ナクシタ宝物ヲ
傷ツケナイデ欲シイノデス

ワガママナオ願イデ
ゴメンナサイ……………

(終)

「悲しみを抱えて生きること」

私は12年前、大学生の娘を事故で亡くしました。

朝、大学へ行く娘を見送った時に交わした「何時に帰る?」「8時頃かな」「じゃあ、またメールして」という言葉が最後になりました。

いつもと変わらない日常が、一瞬のうちに失われてしまいました。

親にとって子どもの生命は未来へと続くものだと思っていました。自分より先に逝ってしまうとは思いもよらないことでした。

「なぜ?」という問いだけが頭の中をぐるぐると廻りました。今でも、娘の死は間違いで、ひょっこり帰ってくるのではないかと思うことがあります。

ある時、娘がこたつに入って寝ている夢を見ました。

「学校行かなくていいの」と声をかけると、「もう、どこにも行かない」と答えるのでした。

私は、「ああ、娘はずっと私の所にいてくれるのだ」と思いました。

生命のぬくもりを再び感じることはできなくなりましたが、私の中に新たな娘のいのちが宿り、もう二度と離れることはないのだと感じられました。

娘のいのちを感じながらも、どうしようもない悲しみに打ちひしがれ、生きている意味が見いだせなくなる時があります。

私の思いは深く心のなかに沈み込み、その底は暗闇でした。そこには尽きることのない悲しみの闇しかありませんでした。目を伏せ、耳を閉ざして座り込むことしかできませんでした。

同じように事故で子どもを亡くされた遺族の方とお会いする機会がありました。そこで語られた思いは、私の心に沁みわたりました。

同じ思いを持って生きている方達との交わりは、言葉で語ることが出来ないものをも共有できる場でした。

心の中に閉じ込めていた気持ちが溢れ出て、「私は独りではない」と感じられ、周りの人達と気持ちでつながることができました。

自分の気持ちをもっと知りたくなり、グリーフ(悲嘆)とそのケアについて勉強を始めました。

グリーフを様々な面から学び、その深さと多様性を知りました。
悲しみを抱えているのは私だけではない、遺族は皆、どうしようもない悲しみを抱えながら生きているのだという事を知りました。

同じ悲しみを抱えるもの同士が寄り添うことの大切さ、独りではないという安心感を持つことが生きていく力になるのだと知りました。

今、私はグリーフケアを学んだ仲間と一緒に遺族会を開催し、スタッフとして活動しています。遺族会で出会った方達の語りや生き様から、多くの力を頂いています。

娘を亡くした悲しみはなくなることはないでしょう。しかし今は、その悲しみを抱えながらも生きていけるのではないかと思えるようになりました。

同じ悲しみを持つ方々との出会いが、
私に生きる力を与えてくれました。

出会いに感謝し、
これからも皆さまと共に歩んで行きたいと思います。

(終)

「夫は私の心の温もりとなって」

容赦なく降り注ぐクマゼミの声と共に、夫のなきがらを見送った日から、今年で早八年目の夏を迎えた。

一年余り、娘の助けを借りながら自宅で介護する日々を送ったが、日毎にやせ衰えていく夫を目の当たりにしながら、ただただ恐ろしくて夫に励ましの言葉も、笑みも返すことができなかったことへの後悔の念に苛まされていた。
と同時に、配偶者を亡くすという私と同じ体験をした方が、傍に居てくれたならどんなに心強いことか、という思いが込み上げてきたことを今でもはっきり覚えている。

このような二つの思いを抱えながらこれからの生き方を模索しているときに、夫の葬儀を担当してくれた会社から遺族会へのお誘いの連絡を何回かいただく。

しかし当初の私には、遺族会とは、お互いの傷口をなめ合うような場所としか考えが及ばず、とても参加する気にはなれないでいた。

そして、夫への深い後悔の念と、同じ悲しみの体験を誰かと共有したいという二つの切実な思いに駆り立てられるようにして、グリーフケアワーカーとしてのボランティアの道への学びを始めたのである。
このとき夫の死後二年目のことであった。

グリーフケアの師は、二年目そこそこで新しい道に歩もうとしていた私を呼び止められ、「悲嘆を背負ったものは、自分だけで乗り越えることは大変なこと。まずは自分をしっかり癒しなさい」と言われ、遺族会への参加を勧めてくださったのである。
あれほど私が拒んでいた遺族会に、である。

参加後、私は、今までの短絡的な考えを改めずには居られなかった。

そこは、自分の悲しみを自由に吐露してよい場所であり、それを黙って聴いてくださる同じ悲しみを背負った人々、そして何よりスタッフの方々の終始穏やかな心配りで満たされ、遺族の方々に寄り添う姿勢が息づいていたからである。

参加当初は、自分の悲しみを話しても、人様の話を聴いても涙を流していた私であったが、歳月を重ねて、ようやく苦しみに歪んだ夫の顔ではなく、笑顔の夫に出会うことができるようになったのである。

このような境地に辿りつけたのは、学びの場や、遺族会を通して、しっかりと癒され、支えられ、多くの良き師、友、人々との出会いが私をここまで導いてくれたからに他ならないと考えている。

現在、私は、緩和ケア病棟にてボランティアをしている。
夫に返せなかった笑みを、人様に少しでもお返ししたいという一心で、病と闘っている方々に、一杯のお茶を通して、「私たちもここに居ますよ」という心の叫びを、届け続けたいと考えている。

これまで踏み出せなかった生き方に転じたことで、当初の深い後悔も少しずつ解消され、今や、夫は私の心の温もりとなって生き続けている。

人の死というものは、その直面した本人にしかわからない苦しみ、悲しみを伴って、今後も私を不意に襲ってくるであろう。それでも私は、夫の存在を信じ、心の温もりを支えとして生きていきたい。

これまでのご縁をいただいた多くの人々に感謝の日々である。

(終)

「大切な人を自死で亡くして―遺族会との出会い―」

もうなのかまだなのか、夫の自死により遺族となって9年に
なります。それは家族を含む数年のうつ病との闘いの後でした。

いつかこうなるかも知れないという思いはあったもののやはり「まさか」でした。

夫の死後ショックで寝たきりとなった義父、息子の死と夫の看病がきっかけとなったと思える義母の認知症、3人の子ども、フルの仕事と私の背負った荷物は重すぎました。それを抱えて必死だったこともあって、悲しい寂しいという感情はどこかに置いていた気がします。

それに、亡くなるまでの数年の大変さ故、正直ホッとした気持ちもあり、そんなことを感じる自分を責める気持ちと「私が死なせて(殺して)しまった」という自責の念が私の中に根付いていました。

でも、頑張れていたし、意外と冷静だったので、きっとこの先も大丈夫と思っていました。

ところが、仕事上関わった方からかけられた「幸せそうなあなたなんかに旦那に自殺された私の気持ちがわかるわけない」と言われた時、心臓の割れる音が聞こえたのです。

その時初めて「大丈夫じゃない」と気づきました。

そんな時、知り合いが「グリーフケア」という言葉を教えてくれて調べてみると「遺族の会」というものが有ることを知りました。

行きたいと思って実際に行くまで色々な不安から、数か月かかったと思います。しかも「自死遺族の会」には参加する勇気がなくて最初は死因を問わない会への参加でした。当時は病気や事故等で生きたくても生きられなかった方の遺族への申し訳なさと自死遺族であることを言えない居心地の悪さもありました。

今は、生きたいからこそ闘い続け、自死するまでに追い込まれたのだと思えますが・・・
その後一歩踏み出して「自死遺族の会」に参加することになりました。

「遺族の会」は私にとって「死」を語ることがタブーではない、事情や思いは様々でも「そうそう」と感じることが出来る、仲間意識が芽生える有難い場所でした。

そしてそのことは自責の念でいっぱいだった自分に小さなマルを付けることにも繋がりました。

「あんなことを言わなければよかった」とか「あれもこれも言えなかった」とか「あの発言に傷ついた」といった経験は有りましたが、それでも又行きたいと思えたのです。自死遺族とならずに済めばそれに越したことは無いのかもしれませんが、なったからこそ得た沢山のことに今は感謝しています。

※遺族会に参加されている方々のプライバシーに十分な配慮をするため、著者名および著者が参加されている遺族会の名称は、伏せさせていただきました。